古市憲寿『だから日本はズレている』

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29歳の若き社会学者、古市憲寿さんの書いた本

多くの日本人が口には出さなかったがそうなんだろうなと思っていたことをタイトルにズバリはめ込んできた。なかなか面白そうだ。久しぶりに身体中に熱い血が流れた気がした。

本の中で今の若者は小さな規模の貢献を社会にしてきていると説いている。そして身の回りにある小さな幸せを大事に生きていると。

最後の章に紹介された著者の2040年未来予想図は、格差社会の中でその階級内での幸せを見出して幸せに暮らすという点を除いて、私が感じていたものと大差ない、頭を押さえつけられたような、毎日が梅雨の日のような社会である。もちろんその中で資産を多く持ち裕福な人たちには毎日カリフォルニアの青い空が広がり、燦燦と太陽が照らしている。そういった裕福な暮らしのできない大半を占める人間は、その階級の中で小さな幸せを見出して行きていくのだ。当たり前のように。

考えてみれば、これは日本に限ったことでもなければ、2040年に限った話でもない。どの国の人間も、そしてどの時代もそれなりに格差はありその下の方で暮らす人間の多くはなんでもいいから幸せと感じさせるものを自分で一生懸命探して生きて行く。

そもそもなぜ格差は広がるのだろう。例を引き合いに出すこともないくらい世の中は裕福な人を優遇するようになっているからだ。ある意味でそれも仕方がない。そしてそれが少しずつ、そして政策によって大きく両サイドを引き離す。どうあがいても自分の実力で上に上がることができないと実感するや人は身の回りの小さな出来事に感動し幸せを感じるようにしながら生きる方向に舵を切る。

さて、現実に目を向けよう。

安倍晋三内閣は脱デフレ宣言をし、それまでは1ドル80円ほどの円高を、お金を刷りまくって円安にした。今は120円ほど。50%にもなる価値の下落だ。これで誰が得するのかというと、海外での販売に依存してきた企業である。私は日本の輸入と輸出のどちらに比重の大きい企業が多いのかはわからないが、輸出企業の下請けは原材料を輸入するためまったくもって景気の良さを実感できないという。一方派遣社員の時給が若干上がったり雇用が伸びたという話も聞く。

アベノミクスによれば、上から下に水を多く流せば、今はまだ実感できないかもしれないが、徐々に効果は現れ下にも水が届くという理屈を公然と述べた。よくまぁそんなことをテレビカメラに向かって公言したものだと呆れた。それと同時に国民を馬鹿にするものいい加減にしろ腹も立てた。しかし、私が何より驚いたのはこのとき大半の日本人がこのセリフに無関心だったことだ。

上から水を流し上が満ちたら余った部分があふれて下にこぼれる。このおこぼれを下がいただくという仕組み。上は財布の中身が万札で膨れ、しばらく我慢すれば下は小銭入れが膨らむだろうと。

池上彰氏はある番組でシャンパングラスを使ってそれを解説した。そこでも取りあえげられていたが、上にあるもののシャンパングラスは如何様にも大きくなるのだ。現在派遣労働者のお時給が些少上がったり、都市部で雇用が若干改善されたのも、少しでもおこぼれを渡さないと逆に自分たちの首を絞めるようになるとでも言ったのかもしれないと穿った考えにもなる。

不景気だけど必要な物に事欠くという状態ではなく、ちょっと我が儘を言えばなんとか小さな幸せ(ゲーム機とかゲームソフト?)を手にしてきた若者達。著者は、そんな若者にこの腐った日本を変えるという過大な期待を寄せる「おじさん」に対して警鐘を鳴らし、人脈や資金など若者よりより多くのリソースを持つ「おじさん」たちこそが今の社会を変えるべきであると説く。小さな部分での貢献はしているのだから制度のような大きいことは「おじさん」たちがやってよ、そうじゃないと2040年はこんな感じだよと。

彼もやはり親にすがる29歳といういい歳をした子供なのだ。いつになったら巣立つのだろうか。もっとも巣立ちをお遅らせているのは親こと「おじさん」である。

本の中で若者の投票率が低いことが、ある意思があると主張していることであると彼は解釈する。笑止千万だ。確かにそうかもしれないが、単に義務を果たさないことに対する若者の言い訳を代弁しているようにしか聞こえない。義務ではなく権利だというかもしれないが、私はあえて義務と言いたい。そして、そんなあなた達の行動では決して変わりませんと。

私は思う。あなたの描いた2040年の未来予想図をもっと明るい社会に変えるには、その時の「おいじさん」ではなく、「おじさん」になる今の「若者」である君たちをおいて他にはいない。かろうじて(数多くいる年収200万にも満たない収入の人からも様々な形で金を吸い上げる一方、ほんの一握りの資産家の税率を上げることを避ける)民主主義の社会なのだ。若者の数で制度や社会は間違いなく変えられる。若い官僚にも「前例がない」と突っぱねることがどれだけ新しい芽を、日本の新しい活力を摘んでいるのか危惧している人もいるはずだ。そんな彼らがいてもすぐには変わらない。急カーブを切る時は減速するのは当然だ。

そして誰しも完璧な物がいないように政治家も議員バッジをつけたらすぐに完全な政治家になるものはいない。若い政治家や政治家として若手が失敗しても見放してはいけない。貶してはいけない。もしそんな政治家が若手や若者でしかも日本を変えたいと熱く語るなら、若者達はそんな政治家を応援し支援してほしい。育ててほしい。くだらない、そんな悠長なこと政治では言っていられないという人もいるだろうし、もっともである。じゃあ、どうやって育てるのか。そもそも年寄りは完璧か。冗談じゃない。そうならこの世はもっと暮らしやすいはずだ。

① いよいよ自民党政権の傲慢さに腹をたてる
   ↓
② これで何かが変わる。(政権交代)
   ↓
③ 不慣れなため官僚ともすぐには協調できずになかなか政策が実現されないことにイラつく
   ↓
④ やっぱり以前の方が良かった(前の政権に戻る)
   ↓
⑤ でもこのまま暴走させてはまずいぞ。
   ↓
⑥ そうは思っても、この事態では政権が変わってもきっと同じだ。それならと現政権で仕方ないか。政権が変わっても結局何もできなかったもんな。
   ↓
  ⑤と⑥を数回繰り返し、①に戻る

私はこの⑤と⑥の数回にわたって繰り返される期間を「自民党の常世の春」と個人的に呼んでいる。

30年以上も日本の政治を見てきたが、ずっとこれを繰り返している気がする。

この繰り返しで、自民党はほんの数年野に下ったり他の党と連立したりして耐えさえすれば、常世の春が来ることを知っている。彼らは、国民が新参者に期待する反面、失敗した時の批判が自分たち自民党に対するもの以上であることを知っている。

2040年がもしこの著者や私が危惧するような社会になってしまったとすれば、上述した思考回路しか持たない私を含む日本国民自身のせいであるし、主張もせずに他人に寄りかかっている現在の若者のせいであると私は断ずる。

もし、このブログを万が一にも政治家が読むことがあったとすれば、できれば襟を正し、政治屋ではなく本物の政治家になることを再度決意してもらえるならありがたい。

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